タイマッサージについて思うこと
毎年タイに来てるし、周りにはタイマッサージを習ってると言っているが、実はタイマッサージをうける機会はあまりない。もちろん練習の仕合いっこや、腕の良い施術者や先生を訪ねて、うけたり習ったりはしているが、その辺のタイマッサージのお店に安いからと言ってふらっと入る、ということはないという意味である。
「タイマッサージを習っていると言っているが..」というのは、僕はタイマッサージだけを学んでいるのではなく、受講している講座は基本的にタイマッサージと他の何かが混ざったようなスタイルで、それをタイマッサ
ージと呼ぶかどうかについては賛否両論だが、「タイ古式」というものを知っている人からは、「タイマッサージじゃないね」と言われることもしばしば。
じゃーどこからどこまでが...という話は一旦置いといて、昨日タイで受けた足裏マッサージの話をしようと思う。
まず、僕が基本その辺のお店にふらりと立ち入らない理由は、不快な気分になるからであるが、そのリスクをおかしてでも入る時がある。それはタイに到着した日である。この日は大抵疲れているし、金銭感覚もまだ現地のものではないので、「まー今日はいいか」と言って入る。それでもタイマッサージ1時間とかは恐ろしくてとらない。フットマッサージぐらいならまぁ無難かな、といったかんじである。昨日はそんな感じで深夜近くにフットマッサージ1時間をお願いした。....5分後、30分に変更を希望。割高になるが了承してもらった。だって不快なんだもん!
そんなに塗らんでも、、と思うぐらいベッタベッタにクリームとオイルを塗りまくり、マッサージというか足をただ擦ってるだけで全然気持ちよくないし、ふくらはぎを触るために足首を外旋して固定するのだが、その手の力の入り方が怖い。マッサージに集中してないし、何より粗末に身体(私というもの)を扱われてる感じがやっぱり嫌なのである。終わった後は案の定、足に痛みと違和感が残ってしまった。
どこに行っても同じとまでは言わないが、その辺でタイマッサージを受けると、このようなことになる確率は残念ながら高いので注意した方が良い。繊細な人にはまずお勧めしない。
一般的なタイマッサージには型というものがあり、順番通りに施術する。それにタイマッサージの考え方に悪いエネルギーは脚に溜まる、という考え方があり、下半身の施術に全体の時間の7割程の時間を割く。なので肩を触って欲しい人からしたら「早く来て〜」という感じになる。それに一般的なタイマッサージは痛い。結構な押圧をかけてくるので、知らないひとは我慢するしかない。タイでは、マッサージが庶民的で手軽に受けられるのはメリットではあるが、決してレベルは高くないというのが現状だと思う。
欧米では「タイマッサージ」というネーミングは「Shiatsu」などと同じように、東洋の思想を醸し出すため、今でも頻繁に使われているが、日本の場合どうだろう。誤解を恐れずに書くと、日本ではこのネーミングにあまりメリットは無いと思う。
じゃー「タイマッサージって一体なんなの」ってことに話を戻そうと思う。
タイマッサージで忘れてならないのは「仏の心」である。始まりは仏教徒のためのものであったとされ、お寺で治療が行われていたこと。つまり「慈愛Metta」の精神が根底にあるということ。いろんなマッサージやボディワークがこの世界にはあるけれど、タイマッサージの特徴、僕が魅力を感じるのはこの部分である。「慈愛」とは、想像するのは簡単だけど、本当の意味で実践していくには自分自身を深く掘り下げなければ見えてこない気がする。決して簡単に出来る事ではないが、この精神に近づこうするプロセスこそが一番大事な部分ではないだろうか。と、偉そうに人様のカルチャーのことを書いているが、僕だって僕より日本のカルチャーを知っている欧米人と話していて「はっ」する時が度々ある。
タイ人はのんびりであまり向上心が無さそうではあるが、それが全体ではなく、話せば理解し、新しいものを取り入れようとするものもいる。欧米人の先生が教える、前回チェンマイで習った時の講座にはタイ人の先生も参加していた。素晴らしいことである。
ちょっと話が飛んだが言いたかったのは、昨今では、一発で治るような素晴らしい技術の開発や、触れずとも治療の出来るエネルギーワーク、様々な代替ボディワークがある中で、僕はタイマッサージの「慈愛」の精神を持って深く静かに「触れる」、を追求していきたい、ということであります😉🙏
この分野はまだまだ書けそうだな 笑。またそのうち。
最後まで読んでくれてありがとう!
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